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第52回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第1号 昭和41年9月12日

以下は、参議委員運輸委員会のうち、荒舩運輸大臣と石田禮介総裁のやり取りの部分を抜粋したものです。

資料性と言うことで、特段の解説は加えておりませんので、コメント等は最低限としておりますので、よろしくお願いいたします。 

現在の深谷駅

現在の深谷駅 画像 wikipedia

関連ブログ 偉人伝 石田礼助総裁物語 第13話 武士の情け、急行停車と荒舩清十郎

併せて是非ご覧ください。

○瀬谷英行君 まず大臣にお伺いしたいと思いますが、十月のダイヤ改正で深谷に急行が停車することになりました。この問題がたいへんにいま話題となっております。しかしこの十月のダイヤ改正は、十月の時刻表を見ますと、すでに深谷に急行がとまるようになっております。これが巷間伝えられるように運輸大臣の特別の指示によるものなのかどうか。急行の停車駅は従来どのようにしてきめられていたのか。もし、すでに腹案ができておったにもかかわらず、大臣の特別の指示によって深谷に急行をとめたということであれば、それは国鉄として一体どのような観点でとめるようなことになったのか、運輸大臣並びに国鉄総裁それぞれからお答えをいただきたいと思います。


○国務大臣(荒舩清十郎君) この問題は、もちろん国鉄自身がきめる問題でございます。端的に具体的に申せば、深谷市の駅勢人口というような観点からいたしまして、これは当然急行も何木かとまるべきだというふうに考えております。私はもっとこう具体的な話で埼玉県でございますから申し上げてみたいと思いますが、昭和三十一年三月から高崎、本庄、深谷、熊谷、大宮から上野を終点とする上りがございまして、午後に一本の上りでございます。それから昭和三十三年の四月から、上野を出発いたしまして大宮、熊谷、深谷、本庄、高崎というふうにとまっておった快速列車と称するものがございます。なお、昭和三十三年の四月から実は始発といたしまして、深谷市から七時十五分というのが出ておったようでございます。――先ほどの年月日違いました。上りが昭和三十一年三月からのようでございます。
 そういうようなことでございまして、前にも快速列車がとまっておりまして、なお始発も出ておりました。私専門家でございませんからよくわかりませんが、この列車が急行もとまりあるいは始発もあったことは事実でございます。で、それが昭和三十六年の二月ごろから、これが出なくなりました。ストップしなくなり、あるいは出なくなわました。私も埼玉県でございますから、しばしば、国鉄に何回も陳情をして、ぜひ、隣の本庄市は相当多数の急行がとまる、上りも下りもとまると、しかも本庄市は、四万六、七千の人口であり、深谷は五万七、八千でございまして、なお首都圏整備法による工場団地が設定されておる現状から見まして、ぜひ何本か、ひとつ急行もとめてもらうし、始発電軍も出してもらいたいということで、数回にわたりまして実は国鉄に陳情に代議士当時参りました。これはまあそれがいいか悪いかは別でございますが、どなたも同じ県人であれば、そういうようなことは頼まれたり、またやったりすることだと思う。いい悪いは別です。そういたしまして、たまたま、六月の下旬か七月初旬かと思いますが、もちろん運輸大臣になるとも私は存じてない、想像もしておりませんでした。陳情に参りましたところが、まあそれは昭和三十一年ごろからそういう陳情もあるので、今度はダイヤ改正のときにはまあ前向きで何本か相談いたしますよ、前向きで考えますよと、そのことばははっきりいたしませんが、そういう返事でございました。したがって、これはもちろん運輸大臣がどうするというわけではございませんし、また代議士である荒舩がどうするという問題でもございません。したがって、私は六月の下旬か七月には、これはもう何本かとまるものだろうという想像はしておりました。
 新聞等によりますと、何か一つくらいおれの言うことを聞いてもいいじゃないかと言ったように新聞には出ておりますが、全くそういうことではございません。まことに私は、私の足らざるところ、また人格の足らざるところでございましょうが、誤り伝えられたといまでも信じております。そういう関係で、なお私が想像いたしますのに、実は特急、急行、準急等も増発され、それからまたそれに伴って駅勢人口の多いところ、あるいは旅客の多いところでは、何カ所も急行がとまるダイヤになるようでございます。したがって、こういうような点につきましては、たまたま私が運輸大臣になったからということでありまして、決して強圧をしたとか私がきめたとかという考えはございません。ことばのニュアンスにはいろいろ違いもございますし、私が運輸大臣になって埼玉県に帰ったときの発言したことに誤解があったようでございますが、いま考えても、深谷駅に急行が何本かとまるというようなことは国鉄自身がおきめになったことであって、私の代議士中に陳情したことがあるいはは功を奏したかしないかそれはわかりませんが、そういうことであって、誤解を生じたという点については私は遺憾千万だと考えております。
 以上私の考えを申し上げて答弁といたします。


○説明員(石田禮助君) 深谷の駅に急行列車をとめることにつきましては、これは運輸大臣からもただいま御説明がありましたが、要するにこれは運輸大臣から私に向かっての指示でもなければ命令でもない。国鉄総裁といたしましては、その希望に従って私の責任において決定したのであります。深谷というものは、これはただいま運輸大臣からも御説明ありましたが、人口においても相当のものであるし、その将来性から考えても相当のものだということは、国鉄としても承知しておったのであります。ただ問題は、これまでとめた駅と深谷との間の距離があまり短過ぎるというその他の点から考えまして、実はダイヤを編成するときに左すべきか右すべきかちゅうちょしておった。そこへ運輸大臣からの御希望があったのであります。実はこれまでに、これは新聞に出ておることでありまするが、もうすでに私のほうの今村常務が新聞に説明しておるのでありまするが、それまでに運輸大臣から四つか五つのいろいろ御希望があった。でもこれは国鉄としてははなはだ困ろということで実はお断わりした。そこでそのあとに深谷の問題が出てきた次第。これは理屈詰めにいけば断わるのがしかるべきだと思うのでありまするが、実はこれは情に流れて、私の責任においてこれを決定した、こういうことでありまして、もしも責任を問われるならば国鉄総裁であって運輸大臣ではないということを私はこの際はっきり申し上げる。ということは、これは新聞にありまするように、運輸大臣の命令であるとかあるいは指示だとかいうようなことは絶対ないのでありまして、その点は私はこの際はっきり申し上げておきたいと存じます。


○瀬谷英行君 問題になったことは、運輸大臣が、一つぐらいおれの言うことを聞いてもいいじゃないか、こういうふうに言って、国鉄の幹部が大臣の顔を立てて計画を変更したのじゃないか、こういうふうに勘ぐられたわけですよ。そのように思われたから、そういうことはけしからぬじゃないかということになったのですね。で、いまお聞きすると、この深谷にとめるということ自体は特別に横車というふうに考えるわけじゃない、在来考えていたことではあるが、しかし運輸大臣から希望があったので、そこでまあ国鉄総裁の責任においてとめた、こういうふうに言われるわけです。同じ問題を荒舩さんが代議士のときに陳情したときには、そういうものはまあ受け付けなかった。ところが、大臣になって希望をされたときには、総裁は情に流れてとめるようになったのだ。いまの言い方は、それは新聞に報じられた言い方と多少違っておりますけれども、結果的にはどうもあまり違わないような印象を受けるわけです。何か情に流れて大臣の希望があったからとめたんだと、こういうふうに受け取れるわけですね。だから、もし深谷にとめたということがよくないのだということであれば、これはあやまらなければいかぬわけです、総裁が。正しいということであれば、たまたま考えておったことと大臣の希望とが合ったのだということになるわけです。総裁の答弁もちょっと歯切れが悪いですな。どうも何かあっちこっちで旅先で言われたことといまのことばとは、表現が多少違っただけで意味は同じように聞き取れるのですが、どうなんですか、それは。


○説明員(石田禮助君) 大臣が私に対して、直接じゃない、これは今村常務を通して申したのでありますが、一つくらいはいいじゃないかと、こういうことを私は聞いておる。これは何か新聞社がちょっと筆を走らしたせいじゃないかと思いますが、私はそういうことは知らぬ。いずれにしても、私としては、こういうことで大臣から希望があったがどうしましょうかという、いままでいろいろ御希望があったのだが、それを拒絶した手前、一つくらいはよかろうということで、これは私は心底から言えば武士の情けというかね。これははなはだどうも国鉄の犠牲においてそういうことをやったということは私の不徳のいたすところだと思いまするが、とにかく何となくそういうことになったという、こういう次第でありまして、この点はどうぞ瀬谷さん御了承願いたい。
○国務大臣(荒舩清十郎君) 聞きようでございますので、ちょっとニュアンスが違うように思うのですが、私は運輸大臣になってからこれをぜひとめてもらいたいということを言った覚えはございません、一ぺんもございません。私は五、六回国鉄には陳情を代議士の当時は――前にもいわゆる快速列車がとまっておったのだから、その後も人口が埼玉県としては一番増加をして大きな町になってきたのだから、ぜひとめてもらうようにお願いしたいということは、代議士当時五、六回陳情に参りました。その最後の陳情のときに、実は六月下旬か七月早々と思かますが、さっき申し上げるように、運輸大臣になるとも夢にも思いませんで、ぜひ頼む、前にとまっておったのだから頼むというときに、前向きにひとつ検討しましょうよということであるので、まあ何本かきっととまるのだなというその当時確信を持っておりました。たまたま運輸大臣になりまして、埼玉県からいろいろなことでお祝いがてら陳情が参りました。陳情というより、お祝いに参りました。そのときに数十人参りまして、あの問題もう一ぺん聞いてもらいたいという話でございますが、運輸大臣としてはそういうこどは言えない、こう言って私は返事をいたしました。ところが、ちょうどそのときに国鉄の今村常務が私の部屋にお祝いに、またほかの人も幾人か参りました。一緒に参りまして、ところがそのお祝いに来た人が一ぱい私の部屋におりまして、あれはどうなりますかと、こういうことを市長あるいは議長等が言われたようでございまして、私がそのときに、まあそんなくどいこと言わないでも、もう七月早々に決定があるようだから、そんなくどいことは言わないほうがいいよという話しましました。しかしそのときに、まあ何か前向きにということであるからおわかりでありましょうということで今村常務もお帰りになった。私は運輸大臣になってからこれを頼むとか、ごれをやってもらいだいとかいうようなことは一言も申しませんでした。
 なお、誤解があるといけませんからつけ加えて申し上げますが、実は運輸省に入る前に、深谷駅の急行の問題等で、重ねて高奇線を何とか複々線にならないものかと、あるいは都市交通というものをもう少し何とか優先的に考えないものかという意味のことは国鉄にもしばしば陳情をいたしまして、そういうことを代議士当時に陳情したりなんかしたものですから、それが何か残って誤解の種が大きく浮かんだんだと思うのでございまして、何か総裁――石田さんと食い違いがあるようでございますが、実際はそういうことでございます。


○瀬谷英行君 問題は大臣になった――運輸大臣のツルの一声でまっすぐなやつも曲げられるんじゃないか、こういう印象を与えたことが一番私は問題になっていると思うんです。だから、そういうことがはたしてあったのかなかったのか、今後あっていいのか悪いのかというのが、運輸委員会としては問題にしなきゃならぬところなんです。で、お聞きしますと、大臣になってから深谷に急行をとめてくれということを頼んだ覚えはないというふうにいまおっしゃいました。代議士のときには何回か頼んだ、しかし大臣になってからは頼んだ覚えはない、こういうふうにおっしゃった。ところが総裁のほうは、武士の情けでと、こういうふうに言われたわけですね。頼まれないけれども武士の情けでというと、ずいぶんこれは情け深い話です。それほど石田総裁が情け深い方だと私思わなかった。もしも深谷に急行をとめるということが正しいのならば、大臣が頭を下げたり、国鉄の総裁が旅先で遺憾の意を表明したりする必要は私はないと思う。ところが、九月五日の記者会見で荒舩大臣は、一代の不覚であると、こういうふうに言って頭を下げたということになっておる。新聞に非常に大きく出ております、いろんな新聞にね。男一代の不覚であるとかなんとか、非常にオーバーな表現で書いている。その一代の不覚であったということであれば、急行をとめたとかとめないとかいうのは簡単なことなんですからね、とめるものをとめないようにするなんてことはわけのないことで。だからそれを再検討させるということは私はできるんじゃないかと思うし、国鉄総裁が旅先で、どうもはなはだ遺憾であるという意味のことをこの記者会見で、あなたはまた別のところで言っておられる、四国か九州かあっちのほうで。それが新聞に出ております。はなはだどうもおもしろくないかのような言い方なんですね。こういうことはあっちゃいけないかのような言い方をしておられる。旅先で言われたことは一体どういうことなのか。今度の問題と関係がないとは言えないんです。だから、この点がどうもやはり総裁の答弁と大臣の答弁とが合ってないですよ、率直に言って。だから、もう一度その点を、国民に疑問を与えていたならば、その点を釈明するようにはっきりさせてもらう必要があるんじゃないかと思う。


○国務大臣(荒舩清十郎君) ただいまの一生の不覚であったということに対して私は申し上げたいと思いますが、実は新聞にこんなにじゃんじゃん出たということが一生の不覚であったと、世間を騒がせたということが一生の不覚であるということであって、それからまた国鉄その他に与えた影響というようなことも、これはこういうことだと思うのです。さっき申し上げたように六月の下旬から七月早々でございますので、それから私が運輸大臣になりましたのが八月の一日で、時間がない、ごく短い時間ですから、それが一緒くたになって、あるいは今村常務から総裁に伝わったことばが、私が運輸大臣になってから伝わったことばであるかもしれませんし、そこらに非常なこの問題に誤解を生じたという点、まことに一生の不覚であった、こういうことでございまして、深谷駅自身に急行がとまったということは、これは国鉄自身が決定する問題でございまして、これは私は武士の情けでもないと思いますし、当然やるべきことをやったのじゃないか、こう思われるのじゃないかと思うのです。いずれにいたしましても、私はあれほどマスコミにいろいろ書かれるということは一生の不覚であったということだけは、はっきりいまでもそう考えているわけでございます。


○説明員(石田禮助君) この問題につきましては、私は大臣と直接に折衝したわけでも何でもありません。今村常務から聞きまして、それでまあいいだろう、このくらいのことはひとつやりたまえ、こういうことを申したのでありまして、今村君の話によるというと、まあその前に幾つかの問題がありましたが、これはせっかくだが大臣の希望をいれるわけにはいかぬ。しかしこの問題については、これはそんな絶対にやっちゃいかぬということでもないしというようなことですから、それならやってもいいじゃないか、こういうぐあいに私はきわめて簡単明瞭に今村君に指示したわけでございまして、実はそのときにはすでにダイヤというものはもうきまっておったのであります。それを改正するというようなことになった次第であります。


○吉田忠三郎君 関連。運輸大臣、どうもあなたの同僚瀬谷委員に対する答えを聞いていますというと、何か三百代言(相手を巧みに言いくるめる弁舌。またそれを用いる者。また、弁護士をののしっていう語。出典:コトバンク)がものを言っているような感じがするのです。ということは、いやしくもみなたは佐藤内閣の一閣僚でありますから、閣僚として、やはり運輸大臣としては私は責任を負わなければならぬと思う。そういう立場からあなたは世論というものをどうながめているか。新聞はどこかの新聞なんとかと言っていますけれども、ここにいろいろありますから、ひとつあなたのやつを読んでみます。運輸相が首相に釈明をした――かなりのものに出ていますよ。これは一億国民みな見ているわけです。この新聞は、それは九月の六日ですよ。そうして、急行の政治停車、このことで運輸相が総理大臣に釈明をした、ずっと書いていますよ。そこには一世一代、かんべんしてくれなんということは書いていませんが、ちゃんとしたこと書いています。それからその最後に、総理大臣としては、あなたが閣議でもそういう発言をしているらしいから、政府の見解としては、すみやかに国鉄の石田総裁を呼んで報告を求めて、実情を厳正に調査の上、この問題に対する政府の見解を明らかにする――これは九月の六日です。そのときに同じく国鉄の総裁が、これは九月の四日の夜に「朝日」の新聞記者との会見をいたしております。これは間違っているなら、石田総裁から答えられるでしょう。そのときの石田総裁の発言は、彼も政治家なんだから、こういう言い方をして笑い飛ばしている。笑ったか笑わぬか私はその場にいないからわかりませんがね、これは。そうして筋を通しまして総裁がこの問題について――いろんな問題を国鉄の総裁まで苦労してやってきたわけですから、公約をしてきたわけですから、筋を通してやったらどうなんだ、こう言ったら、最近私もものわかりがよくなったから、こう言って、これまた笑い飛ばしている。こういうことからいろいろなことが書かれてきて、荒舩さんよく聞いてください。「大臣名改正の件、今後運輸大臣を深谷大臣と改称する――内閣告示、東京・やの字」というのが「かたえくぼ」という欄に出ている。もはや落語のネタになっているのですよ。落語の何とかというやつは東宝名人会でやっておりますよ。すべて国民は聞いているのだ。こういう世論はあなたはどうお考えになるかということ。
 それから私はおととい、「週刊文春」、きわめてきれいなのが載っておりますが、これを見るために私は買ったのじゃない。この二十二ページに「荒舩大臣――涙の急行列車」、歌の文句のようにここにも書いておりますぞ。これにも御自慢り代議士ソング第一号何とかというのが書いてあって、ソングに似たようなタイトルで出ております。「非難が集中してアタマをかかえる運輸相」――こういう見出しで、中身を読んでみますと、やはりあなたが答えたような内容になっていない。内容になっていないということはどういうことかというと、若干いまあなたも認めたように幾つかの要求をしておったのだ。幾つかの国鉄に対するあなたは要求をしておった。あなたも言っているように、その要求は、事のよしあしは別です。別ですが、「これくらいは認められないか」と言ったことは事実です。事実なんだ。それを踏まえて、今村常務が結果的にはあなたに屈服した、この真相だけは私は明らかだと思う。それならそれのように、あっさりそういうことを自今やらないとか何とか言うべきじゃないですか。この内容は、まっかなうそだということにはなっていない。これは私ばかりではなくて、一億の国民がそう信じ切っておると思うのです。こういうものを見たときに、どうなんですか、これは。


○国務大臣(荒舩清十郎君) いろいろ御意見があるようでございますが、私は総理に、こういうふうにいろいろ新聞に書き立てられて、こういういろいろ騒ぎが出たことはまことに申しわけないということを総理に陳謝いたしました。それは事実でございます。しかし、いまの新聞やあるいは雑誌に出ておる等の問題については、私はそう考えておらないのでございます。決して国鉄に強圧的なことばを使った覚えはございません。なおまた、幾つか問題といっても、それは大きな問題であって、これは運輸大臣になってからでなくて、実は議員の当時、たまたま陳情に行って、私、この高崎線の複々線というような問題は、ひとつもっと何とかスピード・アップしてもらう方法はないか。あるいはまた高崎線、八高線というような問題等も、実は回数も少なくて困っているという陳情はいたしました。それは議員当時でございまして、その後において、私は運輸行政全般にわたってでございまして、一埼玉県のことや何かのことを主体に考えて発言していることはたぶん一ぺんもございません。これだけはひとつ私は釈明をしておく次第でございます。なおまた、よきにあしきに、いずれにいたしましても、こういう問題が提起されて、国民全体にいろいろな疑惑を生じせしめたということは、これは申しわけない、遺憾千万であるというふうに考えておりまして、今後は大いに言動にえりを正し、そうして間違いの起こらないような発言をしたい、こういうふうに考えております。


○吉田忠三郎君 だいぶあなたは、釈明、弁解は何回されてもいいのですが、あなたは運輸大臣になったのは八月一日です。いいですか、それから国鉄の当局から私はその関係で聞きました。その聞いた範疇では、私はこれは正しいと思う。その範疇では、七月の下旬の高崎の管理局のダイヤ編成会議でこの問題はきまっている。ここに問題がある。そうしてあなたは、大臣になるや、八月の中旬にあなたは帰ったでしょう。帰ってすぐテレビで見ておって驚いた。何をやろうと自由かもしれないけれども、あなたは街頭でやったでしょう。あなたの演説を間接的に聞いておったのです。その演説で、「人口五万五千人の深谷市の表玄関に急行がとまらないのはおかしい。ぜひ急行がとまるように話しておく。このくらいのことが聞けないなら、国鉄から何を頼まれてもウンといわぬ」「ちょっと長くなるが、もう少し続けよう。」という、このあとが問題なんです。「そこで皆様、非常にいいお知らせがあります。この十月にダイヤ改正がありますので、その際深谷駅に急行を午前二本、午後二本停承させるよう国鉄に指示いたしました。決定いたしました。約束させました」、こういうことで、地元民にあなたは拍手かっさいされた事実がある。この事実はあなたは否定できないと思う、テレビで出たから。そういうことが、先ほど来言っているように、すべてテレビなり、あるいは週刊誌なり、このように連日あなたは、田中彰治の問題も出るけれども、あなたの問題が出ない日はない。最近、カラスが鳴かない日はあっても、あなたの問題は出ている。こういうふうに国民全体が、荒舩運輸大臣というのは、ひいては佐藤内閣の政治姿勢というものはこういうところにあるのだという疑問を抱かせたこと自体には間違いないでしょう。この点についてあなたはどう考えますか。


○国務大臣(荒舩清十郎君) いろいろなお考え方はあるし、まさにそのとおりであろうと思います。しかし、私が深谷に参りましたときに言ったことばで、国鉄の問題をもう聞かないのだとか、やれ何とかいうようなことは一言も言いません。六月の下旬か七月早々に、前向きというような話があって、まあ四本ぐらいというようなことは非公式に聞いたので、四本はとまるなという感じを、運輸大臣になる前から私はそういう信念を植えつけられておりました。したがって、そういう意味のことは言いましたが、国鉄自体が何を言ってきてももう聞かないのだというようなことばは全然使っておらないと思います。それからまた、いまお話しのように、いろいろ誤解もあり、また私の言動に遺憾な点もあったかもしれませんが、将来に向かいまして、個人の運輸省ではございません、国の運輸省でございますから、これは歴然とえりを正して進みたい、こう考えております。

 

以上になりますが、国鉄総裁の対応に対して、荒舩大臣の方は弁明に精一杯という風に感じてしまうのは私だけでしょうか? 

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