以下は、港区/デジタル版 港区のあゆみ から引用したものであり、省電安全運転闘争に関する記事が書かれています。 人民電車事件(昭和24年)は、有名ですが、この事件はあまり知られていないうえ、戦後の混乱期の状況を示す非常に重要な記述です。 そして、ここで出てくる、国労東京地協(当時の表記)と言う組織ですが、この東京地協の一部を国労連合体が認めなかったという点や、その後、国労自身が中立を保つ中、独自に産別会議に参加するなど独自路線をとったようです。 そして、この省電安全闘争で注目すべき点が、戦後の崩壊した国鉄組織に対する告発運動とも取れる事を要求している田が注目されます。 そして、ここで東鉄局長に面会している名称が、鉄道委員会というのも注目すべき点です。 最初に、鉄道委員会というのはどのようなものかを説明しますと、鉄道委員会は戦前の官製の労働組合(実際には労働組合ではないのですが、国鉄一家の方針の下作られた言わば上意下達な組織であり、当時の運輸省は、この鉄道委員会を改組して労働組合としたかったものの、実際にはすでに職場毎に組合が立ち上がっており、言わば有名無実化していることで最終的には撤回することとなった経緯があります。 それ以上に興味深いのは、当時の国鉄の組織の乱れという点が如実に語られていることでしょうか。 実際に、鉄道での犯罪率も高く、駅員等の態度も酷いものであったことは、数々の資料などでも確認することが出来ます。 物資部とは なお、本文で出てくる、物資部という組織の解説がなされていますが、実際にこうした隠匿物資の横流しが行われていたのかは、現時点で調べる資料は筆者にはありません。ただし、戦後の混乱期にこのようなことを行っていた可能性は捨てきれないと思います。 あと、物資部は食料品等の配給とっていますが、戦後は国鉄職員とその家族向けの小さなデパートのような存在で、乾物などの食品や日用品などの購入、家電製品などは物資部が指定した街の商店などで買うことが出来ると言うもので、地域の経済を潤わせる一つの装置でもありました。 戦時中、国鉄はほとんど軍隊組織と変わらない ここで、一部国鉄職員の横暴さが目に余るとして追放を要求していますが、国鉄は昭和16年から本格的に国鉄自身が政治...
昭和23年6月号の記事ですが、当時の組合の実態が良く判る、そんな内容の記事となっています。 共産党などの影響をさけて、民主的な労働組合運動を目指す民同派と共産党の影響を植えきれる容共派が組合内でも分裂していく様とその危惧が書かれているわけですが。 実際に、国労の場合は比較的早い時期に、動労(当時は機関車労組)が分裂し、更には国労内にあって、容共派を中心とする、山猫スト【無届けスト】などが実施されるなど、スト権剥奪後の民主的な組合運動を模索する中で、国鉄のそうした分裂と統制が難しかった様子が伺えます。 結果的に、こうした最初のスタート時点が違った形で収束できていれば、また違った形で現在のJRはあったといえるかもしれません。 いずれにしても、こうした研究には答えがありませんが、私なりに纏めていきたいと思うのです。 組合自主の確立のために 一全官公争議と国鉄労組 那須井 忠 一 世の中が、理論通り動いたら大変楽しいに相違ない。 そうしたら、大学の教授は、皆一流の政治家となるであろう。 しかし、理論と現質は多くの場合、一致しないのが通常である。 そこで、政治と政治家の存在が必要となつてくるわけだ。 臨時給与委員会で、決定した新給与二,九二〇円水準に対して、国鉄労組は「不満ながら」これをのんだ。 しかし、全逓その他全官公労組は、あくまで不満なりとして、それをけり、遂に全官公争議までに発展した。 全官公労二百七十万のうち、国鉄・全逓両労組はその中核となつているが、国鉄労組が全官公争議に、傍観的態度をとつたことに対し、一部ではこれを支持し、他の一部では「御用組合」と見なして非難した。 国鉄労組のかかる行き方に対し、私は現実政治家的な印象を受けた。 全逓その他全官公の主張する二,四〇〇カロリーに基準を置く理論生計費は、理想論としては正しいに相連ない。 けれども、敗戦によつて破産状態にあるわが国情を直視するとき、理論生計費は現実から浮いた「理論」であることを知る。 新給与間題に闘し、加藤国鉄労組委員長は、朝日新聞主催の座談会で次の如く述べている。 「新給与水準決定の際の私の立場は、官公吏が一般国民と同じ生活水準が出来るという点にあつた。 そこで何を基準にするかと考えた。 中労委などでも具体的な民間の沿与を基準にしてはとい...