【はじめに】 本記事では、昭和23(1948)年に運輸省の部内誌『交通』へ掲載された長坂眞一氏の論考「国鉄人事行政への構想 —特に国家公務員法を中心として—」の新字体翻刻を掲載いたします。 昭和23年当時は、GHQ占領下において国家公務員法が施行され、翌昭和24年の「日本国有鉄道(公社)」発足に向けて、国鉄が官庁組織から独立した企業体へと移行する過渡期にありました。 著者の長坂眞一氏は当時、大阪鉄道局総務部人事課に在籍しつつ、国鉄労組大阪支部総務計理協議会議長を兼ねていた人物です。官庁の現場実務者であり、同時に労働組合の要職にあった著者が、米国TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共企業体モデルや、アメリカ流の職階制(メリット・システム)を取り入れながら、「いかにして封建的人事を排除し、能率的かつ民主的な国鉄経営を成立させるか」を論じた、戦後鉄道史・行政管理史において大変貴重な一級史料です。 記事本文(昭和23年7月号) 国鉄人事行政への構想 特に国家公務員法を中心として 長坂 眞一 一、まえがき 本年七月一日から愈々国家公務員法が実施されるが、この法律は、我が国の明治維新以降種々の官吏法が成立していたすべての機能を包含しながらも、尚その根本的理念は、全く新しい民主主義国家の公務員としての義務と権利を規定した画期的な官吏法典であつて、その内容もアメリカのCivilService Act,にその範をとつているものと言える。 その中で人事委員会及び服務に関する規定は七月一日から、それ以外の規定は別に法律又は人事委員会規則の定めるところにより、その実施の可能な限度において逐次これを実施することになるが、国有鉄道との関係において最近各方面で色々論議されている。この法律の施行と併せで特に注目される点は、官庁人事行政の将来の方向づけを如何構想すべきかであつて、これが当面の大きな根本課題として前面に横たわつていることである。 そのために先づ考えねばならないことであり、且つこの間題の終局を決定する要素となるのは、国有鉄道が国家公務員法と如何なる関係に立つかと言うことである。即ち国家公務員法の規制にどの程度拘束されるか、或はこれとは別個に独立の法形式をもつた単行法で規定するかの問題であり、法律の第二条において規定している如く...
以下は、港区/デジタル版 港区のあゆみ から引用したものであり、省電安全運転闘争に関する記事が書かれています。 人民電車事件(昭和24年)は、有名ですが、この事件はあまり知られていないうえ、戦後の混乱期の状況を示す非常に重要な記述です。 そして、ここで出てくる、国労東京地協(当時の表記)と言う組織ですが、この東京地協の一部を国労連合体が認めなかったという点や、その後、国労自身が中立を保つ中、独自に産別会議に参加するなど独自路線をとったようです。 そして、この省電安全闘争で注目すべき点が、戦後の崩壊した国鉄組織に対する告発運動とも取れる事を要求している田が注目されます。 そして、ここで東鉄局長に面会している名称が、鉄道委員会というのも注目すべき点です。 最初に、鉄道委員会というのはどのようなものかを説明しますと、鉄道委員会は戦前の官製の労働組合(実際には労働組合ではないのですが、国鉄一家の方針の下作られた言わば上意下達な組織であり、当時の運輸省は、この鉄道委員会を改組して労働組合としたかったものの、実際にはすでに職場毎に組合が立ち上がっており、言わば有名無実化していることで最終的には撤回することとなった経緯があります。 それ以上に興味深いのは、当時の国鉄の組織の乱れという点が如実に語られていることでしょうか。 実際に、鉄道での犯罪率も高く、駅員等の態度も酷いものであったことは、数々の資料などでも確認することが出来ます。 物資部とは なお、本文で出てくる、物資部という組織の解説がなされていますが、実際にこうした隠匿物資の横流しが行われていたのかは、現時点で調べる資料は筆者にはありません。ただし、戦後の混乱期にこのようなことを行っていた可能性は捨てきれないと思います。 あと、物資部は食料品等の配給とっていますが、戦後は国鉄職員とその家族向けの小さなデパートのような存在で、乾物などの食品や日用品などの購入、家電製品などは物資部が指定した街の商店などで買うことが出来ると言うもので、地域の経済を潤わせる一つの装置でもありました。 戦時中、国鉄はほとんど軍隊組織と変わらない ここで、一部国鉄職員の横暴さが目に余るとして追放を要求していますが、国鉄は昭和16年から本格的に国鉄自身が政治...