上尾事件に関する顛末として、当時の国鉄部内の雑誌に掲載された、記事から全文転載しました。
上尾事件は、動労による順法闘争にしびれを切らした乗客が暴徒化して駅及び車輌などを破壊する行為に及んだもので、動労の順法闘争も許されるものではありませんが、乗客も不満が溜まっていたとはいえ、こうした暴徒化することは決して許されるものではないこと。
また、「国鉄=態度が悪い」というイメージが付きまといがちですが、暴徒から信号継電装置を守った信号係員や、小荷物等の預かり品を守ろうとした若い駅員がいたことも語られています。
以下、本文
832M ・上尾発 6 時 54分
この4月24日夜、東京都内で発生した各駅の騒乱状態を、各新聞は第二の上尾事件として、一斉に報道した。上尾事件といい、また都内各駅の騒乱といい、国鉄有史以来の未曽有のできごとであった。とこに若干の反省を含め上尾事件を詳述することとしたい。
1高崎線の通勤の現状
高崎線は、埼玉県の県央・県北部と群馬県の南部とにまたがっている縄区(大宮~高崎間)である。
高崎線の沿線は、近年、とみに住宅団地の造成が著しく、都市化の波が押し寄せて来ている。住宅公聞から新駅設置の要望が出されていることからもおわかり頂けるかと思う。
高崎線利用の通勤人口は約五万人。この通勤客を、115系15両編成を主体にした中電19本でラッシュ帯に七分ヘッドで運行することにより輸送している。
2事件発生の契機
去る3月13日朝、全国的に勇名をはせた高崎線の上尾事件が起きた。上尾駅は、大宮から8.2キロ北にあり、職員数46名、橋上式の小さな駅である。
それはさておき、3月5日から国労・動労のサボが始まり、これに起因する輸送混乱が日増しに拡大して行った。問題の目、13日近くには、指令の諸氏は、車両のやり繰りに四苦八苦で運休を防ぐのが、精一杯の態であった。
そして3月13日の朝。遂に、車両運用の部分と、いわゆる減速闘争のため、832Mに
先行すべき828M・1830Mが遅れるという事態に至った。
上尾発が所定6時54分のところ、事件の直接の契機となった832Mが一四分遅れてホームに進入した。乗れなかった乗客の内、数名がドアを押え、発車を妨害したという。駅長は止むを得ず後続の1830Mを中綜に取り先行させようとした(別図参照)。が、この電車も乗客は発車させることを許さなかった。
駅では、発車への協力をくどい程呼びかけるとともに、また13日は、ちょうど群馬県の高校入試当日に当っていためで、この事態は、高校入試の子供さんの足に影響のある旨の放送案内をしても、何らの反応を示さなかったとしている。
駅長や助役は吊るし上げられ、挙句のはて、駅長は蹴上げられて失神し、入院の止むなきにいたった。この間一部の乗客は駅舎に乱入し、破壊を始めた。かくして混乱の渦は次第に拡大して行った。
3事件の渦中にいて
緊急用自動車で高崎から取るものも取りあえず、数名の職員と現地にかけつけた。
あの小駅に、ホームの上に、また線路上に、駅周辺に、約一万人におよぶ群衆がむらがっていた。駅舎に近づくこともできず、駅の職員がどうしているのかも把握できないまま、群衆の怒号を耳に残しながら、駅の東口前の熊谷通運上尾支店に設けられた現地対策本部に
入った。カーテンを下ろしヒッソリと協議をしていると、気がついた群衆が押し寄せて来た。
「ここで何をしている。早く電車出せ」
「責任者は誰だ、出てこい」
「ここをブチ壊すゾ」
かくして、小生も群衆に小突き回わされ、また、吊し上げられる破目となった。
群衆日く。「台の上に登って釈明しろ」
「組合の幹部はどこにいるのか。
何故、連れて来ないのか」
「今日出社できないことに対し、責任をとれ」
「俺の一日分の給料は3000円だぞ、補償をしろ」
「言いわけは無用。電車を出せ」
など、ガヤガヤーーー
「こいつが責任者だぞ」
と小突かれながら、
駅長室の方に歩かせられた。やっとの思いで職員を保護しながら歩いてる警察隊の中に紛れ込むことができた。
ここで初めて警察の責任者にお会いできた。警察のお力添えで、駅の西口にある三菱銀行上尾支店の会議室に、新たに現地対策本部を設置し、いままでどこにいるかもわからなかった各系統の責任者を集め、初めて復旧についての打合せが可能となった。
11時10分頃のことである。
落ち着きを取り戻したか、群衆は少しづっ散り始め、駅周辺は約200名位となった。
午後1時、警察の方々とやっと駅舎に入ることができた。事件発生以来、実に6時間後のことである。ガラスの破片、が床一面に飛び散り、見るも無残に駅舎は破壊されていた。
復旧作業に入ってからは、新聞記者に種々の質問を沿びせられた。日く、
「この混乱の真の原因は、何だと思うか」
「いわゆる順法闘争についてどう考えるか」
「モッブと化した乗客についての感想は」等々。
長時間におよぶ混乱の中にあって、しかも大勢の人間に小突れながらも、
「これだけは壊さないで下さい」
と最後まで継電器室を守り続けた信号掛がいたこと。また
「大切なお客様の荷物だから」
と声をからして手小荷物を守った若い二人の職員がいたことは特筆に値しよう。これらの事実を、私は後刻知って涙の出る思いがした。
4その後
この上尾事件により、高崎線の通勤輸送にとって、正常運転が、また、等時隔運行がいかに大切であるかをいまさらのように思い知らされた。
832Mと48年3月13日と上尾という文字は、恐らく私の記憶から一生消え去らないことだろう。その後、3・17のスト、4・17の年金スト、4・27の春闘スト等と相つぎ輸送混乱があった。そのたびに、局員数十名を高崎線に配置し、通勤対策に当てるとともに通勤列車の等時隔運行に最大の神経を使った。
某課長のツブヤキに日く。「国鉄生活三六年になるが、これほど各列車の運転時刻に気を配ったことはなかった」と。
われわれの日常の輸送業務が如何に根深く社会生活に密着しているかを、この上尾事件の教訓から深く反省し、業務を遂行している“きょうこのごろ”である。
出典:youtube34 - 国電乗客暴動 - 1973 からキャプチャ
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