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国鉄分割民営化論にたいする批判・反対と社会党案 抄

 日本社会党(現・社民党)は、昭和61年1月、国鉄分割民営化に対する批判というとこで、「国鉄再建の具体案」を提出します。

具体的には、以下のような内容でした。

  1.  全国ネットワーク網を維持し、分権化をすすめる。
  2. 経営形態は政府出資の企業体とするが、経営は民営的手法を大幅に導入し、民間資金も導入する、(株式の70%を国が保有することで、実質国有化を維持)
  3. 整備新幹線の着工について、当面見合わせる

と言った内容であり、与党はもちろん、世間からも反発を招き早々とこの案は放棄されることになります。

さらに、当時は野党であった公明党は旅客会社だけでなく貨物会社も旅客会社と一緒に分割というか、旅客と貨物を双方行うという案であり、貨物特にヤード系輸送が赤字の頑強であることを無視した暴論であり、これまた批判のための対案であり、一顧だにされることはありませんでした。

こうして、以下のような社会党の提案に関する文書が公開されていましたので、本文のみを引用させていただき、公開したいと思います。

 

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国鉄分割民営化論にたいする批判・反対と社会党案

 国鉄再建監理委員会最終答申(一九八五・七・二六)以後、政府や国鉄当局等の国鉄分割民営化へむけての動きは、一段と強められた。ここでこの答申への批判はくり返さないが、それは国鉄の経営が破産した状態にあると言いながら、国鉄の資産がいくらあるのか、債務の内容がどのようなもので誰が債権者なのかさえ示していないことに象徴されるような、不公正、非科学的な理由づけで分割民営化を結論づけた、恣意的な作文にすぎないものであった。

 しかもそれが国民の交通権や生活を大きく傷つける内容をもつだけに、これに対する反対運動も急速に発展した。たとえば一九八六年一月二三日付のつぎのアピールは、最近のその状況をしめしている。


 「七月二六日、国鉄再建監理委員会の「答申」が出され、政府は、 一〇月一一日に閣議決定し、昭和六二年四月、国鉄の「分割・民営化」という名にょる国鉄の解体を強行しようとしています。

この国鉄解体の狙いは、膨大な土地を含む国鉄の資産を、いわばただ同然に財界に払い下げようとするものです。政府と財界は、これまでも国鉄を喰いものにし、赤字だけを国鉄に押しつけてきました。国鉄解体は、その責任を一切とらずに「分割・民営化」してこの際、すべて国鉄を財界の丸がかえとしようとするものであり、到底許すわけにはいきません。 他方、私達は、今の国鉄に対し、要求をもっています。日航機墜落の事故をみるとき、まず何よりも安全な国鉄を要求します。大都市において、国鉄用地がとりあえず不用とされるならば、国鉄用地は、緑地帯などとして国民に開放すべきでしょう。生活路線としての地方公共線(ふるさと線)の存続を強く求めます。更に、国鉄を国民の足とするためには、国民的監視の制度をこそつくるべきです。それらの要求実現のために、私達は国鉄の分割・民営化を認めるわけにはまいりません。

 また、国鉄職場では、団体交渉権を否認し、人減し合理化・ダイヤ削減を一方的に実施し、人権を無視したファッショ的労務支配体制による要員削減・勤務改悪などが強行されています。それは直ちに国鉄輸送の安全とサービスの低下につながり、私たちは許すわけにはいきません。

 この国鉄の解体は、民主的戦闘的労働運動の伝統をもつ国鉄労働運動の解体をも意図したものです。

 この国の戦争準備と国鉄労働運動への攻撃とが、いつも軌を一つにしてきた歴史を見るとき、私たちは、この国鉄労働運動への攻撃を国鉄労働者だけの問題として見過ごすわけにはいかないのです。

 既に、国鉄の分割・民営化に反対する運動として、全国で一〇〇〇をこえる組織がつくられています。又、国鉄の分割・民営化に反対する署名は、三五〇〇万をこえる署名が集まるという国民の期待が表明されています。
このような時、今必要なことは、このような運動が更に広がること、そしてそれらがひとつになって運動の輪をつくりあげることでしょう。私たちはそのような願いにたって、本日、名古屋で交流会を開催しました。
 この交流会が、国鉄の分割・民営化に反対する課題で一致するすべての運動がそれぞれの運動の前進を願いながら連絡協同して、幅広く国民的支持をうけながら手をつなぎあい、全国的な連絡組織の結成にむけた、一つの契機となることを願ってアピールとします。

  一九八六年一月二三 日


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