以下は、戦前から戦後にかけてのプロレタリア作家の一人である、徳永直による文章で、国鉄部内誌「交通」のトップに掲載されたものを全文文字起こししたもので、旧字体を新字体を改めたほかは、殆ど当時の記述のままとしています。これは、当時の世相なのかそれとも幹部クラス自身が民主化のあり方を模索する中での決定なのかは判りませんが、極めて異例だと感じています。
改めて鉄道史とりわけ労働運動史研究の際の一次資料の一つとしてご覧いただければ幸いです。
こんどの国鉄ゼネスト(未然に妥協となつたが)については、国鉄従業員自身にとつても、また一般市民にとつても、いろいろと考へるべきことが多かつた。いま私はそのうちの二つについて、一つは「公共事業」、といふことの本質は何か? 二つは過日朝日新聞にあらはれた「制服の労働者」といふ観念について述べたい。
国鉄ゼネについて、一般市民にあらはれた傾向の主なるものは「国鉄は公共事業である。だからゼネストは反對、或は慎重でなくてはならぬ」と云つて、しかも主として従業員側にむけられたこと、そして一般市民は己れを第三者もしくばゼネによる被害者として認識していたことであった。これは日本人一般の「公共性」への誤つた理解であり正しくない。「公共事業」とは何か? 日本人民ぜんたいに共通する利益のための事業である。そしてこれの運営を執行する政府も、五十万従業員も、「日本人民ぜんたいの一部」であって、けつして別のものではない。運輸大臣ゃ五十万従業員によつて勝手に日本人民ぜんたいの共通利益を侵害したり、左右してはならない。したがつてまた日本人民は共通利益をまもるためには、ある程度の責任をおはねばならぬし、まつたくの「第三者」であることは出来ない。
たとへば日本人民ぜんたいは、共通の利益をまもるために、五十万従業員の犠牲を強要することは、五十万従業員が「人民ぜんたいの一部」である以上出来ないし、同様に従業員なり政府なりが、一部の私利や、無能や、失策によつて、共通利益がそこなはれることもみのがしておくことは出来ないのである。だから若しいはれもなく国鉄従業員がゼネをやるなら、一般市民はそのゼネをふみつぶす方へ回ってよいし、また政府当局のやり方が不当であるなら、汽車が止つて「被害を蒙る」どころか、ゼネストを支持し、当局を弾劾すべきである。
しかも前に述べたように一般市民の「公共事業」への認識はだいぶ誤つていた。政府当局の方針が正しいかどうかはたしかめないで、公共事業であるからといつて従業員だけを攻め、自分たちをまつたくの「第三者」とし「被害者」とした。「公共事業」への考え方は「政府」というものをつねに批判の対象から外におく、つまり日本人民の利益のために存在し、日本人ぜんたいの一部であるとは考えない、いはば「お上」的な封建的感情のあらわれであったと思う。
日本人民全体は国鉄ゼネの原因について、政府も五十万従業員もひつくるめて、もつと自分のこととして考えねばならぬ。当局の言うところは新聞記事では明瞭ではないけれど、戰前24万従業員時代への復帰をしばしば言明している。それどころかいまや七万五千の失業者でさへ死の宣告にちかいのだ。ブルジョア軍ばつの戦争によつて破めつ状態におちいつた実業界の建てなほしを従業員の馘首犠牲によってのみ遂行しようとすることが、どんなに片手落ちであるかは、子供にだつてわからう。私たちはもつと産業界のたてなほしといふことを、つまりは日本人ぜんたい--特権階級だけでない--が幸福になるための手段であつて、犠牲者をだすといふこととは凡そ反対のものだと考へてみる必要がある。
過日の朝日新聞は、ゼネスト問題にからんで大阪、名古屋、門司、四国などの地方連合が、ことごとに総連合内において意見があはず、宇治山田の大会退場その他の出来事について、根本的にはイデオロギー的相違がある、つまり関東、東北の国鉄従業員にくらべるとき、関西の国鉄従業員はがいして「制服の労働者」であつて、ただの労働者とはちがふといふ意識がつよい--といふ意味を述べていた。
私はこの新聞所説--関東と関西の比較--が正しいかどうかは知らない。しかし一般的に云つて国鉄従業員には昔から「制服の労働者」的イデオロギーはつよかつたとおもつている。つまり、官尊民卑的な感情だ。反民主主義的な感情だ。
こう云つたら国鉄従業員諸君のうちには怒る人もあるか知れない。しかしたとへば本誌八号の「読者文芸」短文に一席入選である「叔父貴」をみてもそうである。「叔父さん、次は二本の判任官、その次は三本の高等官さ。」と「長い間、傭人職にあつた彼は」「雇の一本筋」になつて「気焔を」あげてるる。気焔もいい。「一本筋の車掌」は「或る日、検札をして居たらひよつこり自慢のベッコウの眼鏡にぶつつかつてあわてて顔を赤らめ」ねばならなかつたのか?。
私は「叔父貴」の作者をせめているのではない。しかしこの文章が入選しているほど、この「叔父貴」は自然な感情を流露している。恐らくこの短文を読んで同感の、若い国鉄従業員は多いのだらうと思う。そしてこの短文の文学的出来はえとはべつにして、この「自然」さが問題なのである。一本筋で「顔を赤らめる」感情は、きつと「三本筋」では人によつては威張らうし、少くとも鼻をたかくする感情につながるものだ。
何故一本筋は「顔を赤らめる」のか? 何故、「やア叔父さんでしたか」と晴れ晴れと会釈できないのが?
ことはちいさいようだけれど、この感情は日本が封建的、軍国主義的イデォロギーを脱して、民主々義化しうるか否かの問題に、まつすぐにつながるものである。一方からいへば一本筋もない「傭人職」を恥づる気持は、三本筋や金ビカを、それを着てねる人間まで、無批判に買ひかぶり、おちぎしてしまふ感情へつづくものなのだ。一ツ星の兵隊が、二ツ星の兵隊になぐられても、どんなに人間性をフミにじられても、「上官の命は朕が命と心得よ」といふよをうみだした母胎的感情なのだ。
勿論、国鉄のような大規模のシステムにあつて、また能力の問題から云つても、一本筋や三本筋の規定があることを、私はけつして否定するものではない。したがつて一本筋から三本筋までにおのれの能力をたかめようとする感情を立派だともおもふのである。しかし無筋の菜ッ葉服を着てるても、紺サーデに金ピカの帽子をかぶつてるようとも、人間としては平等であること、同一の権利と義務をもつた人間であるといふことは、まるでべつな事柄なのである。このことが大事なのである。たとへ相手が金ビカ三本筋であれ、一たび職務以外では菜ッ葉服が--おい、君--と話しかけてよいのである。
たつた筋が一本少ないばつかりに社宅へいつて風呂水を汲み、細君までが台所へいつて、御機嫌を奉仕するようなことが、万一あるとするならば、それこそ乞食根性であり、日本の民主化、日本人民の幸福なる発展への裏切者なのだ。
小説などでみてをソ連の軍隊では一たび私的になると、将軍も一兵卒も、まつたく君、僕で話しあつている。
こういふことを、国鉄従業員諸君は大至急に、そして強力に認識する必要がある。そしてこのことはまたこんどのゼネストにからむ問題、勞働争議の問題にもそつくりつながるのである。「制服の労働者」「ただの労働者とはちがふ」といふ考へ方は国鉄の制服を着てるるだけで、中味の人間までが、ただの菜ッ葉服の労働者とはちがふゾときめている感情である。そしてこの感情こそ、日本労働階級のうちからおのれを孤立させ、官僚反動努力におのれを売り渡すものなのである。
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