AIによる要約
本論文は、1948(昭和23)年の「マッカーサー書簡(マ書簡)」を受け、国鉄従業員が「争議権・団体交渉権を棄てて公務員にとどまるか」、それとも「公共企業体化によって公務員の外に出て労働権利を得るか」という選択肢に直面した背景と、それぞれの利害・課題を多角的に考察したものです。
どちらの途をえらぶべきか
星野守之助
七月二十二日附総理大臣宛連合国最高司合官の書簡は、わが国の政治経済等の各面に画期的な意義をもたらすものであつた。ここでとりあげる問題は、書簡の中にのべられた国鉄従業員の進むべき途についてである。
マ書簡は、まず公務員は一般私企業の労働者と異り、争議権やいわゆる団体交渉権は認められないことを説き、ついで鉄道並に塩樟腦煙草の専売の政府事業についてはこれらの事業を管理し運営するために適当な方法により公共企業体が組織せられるならば、その職員は普通公職から除外せられてもよいとしている。そこで国鉄従業員としては、公務員にふみとどまつて争議権やいわゆる団体交渉権を棄てるか、それともこれを得て普通公職の外に出るか、どちらかの途をえらぶ問題に直面したわけである。
匆論、公共企業体を組織するかどうかは経営面からする目的問題であつて、労働面からする問題ではないと考えるのであるが、結果的に公共企業体となれば国鉄作業員も民間私鉄従業員等とその取扱を区別する理由が乏しくなつてくるという関係から、あだかも労働面から公共企業体の問題がとりあげられているかの如き樣相を呈していると思われる。
二
考え方としては、「われわれがどちらを選ぶか、国鉄六十万の組合員が自己の立場を固執して国民全体のものである国鉄の運営を誤るようなことはわれわれとしても厳に戒めなければならない。従つて公務員としてとどまつて現在の運ば、われわれはそれでもよいと考える」(昭二三、八、一〇~一四交通新聞座談会)という加藤閲男氏の立場はまず正しい。勿論、国鉄従業員を公務員とするか、公務員としないかというような問題は経営責任者が従業員の幸福と国民全体の利益をあわせ考えてこれを判斷し、最終的には国会において決定すべきことがらであろう。しかしそれはそれとして、国民全体の立場からは国鉄従業員はどうあることが望ましいことであろうか。その答えは簡単である。従業員が親切で、むゃみにサボやストで国民の足を奪わず、しかも運賃を安くするということである。
三
終戦後民主主義が強くいわれるようになつたときに国有鉄道を民間に払下げた方がよいという議論をとなえるものが出た。その一つは国家の財政上の理由からであつたが、他の一つは官僚の独善、低能率、従業員の不親切等の理由からであつた。第二の理由からすると、国民は国鉄従業員が公務員で ないことを望んでいるようにも見える。しかし官僚に対する非難は従来の官吏制度の欠陥と従業員の素質の低下とに対するものである。従来の官吏制度が割期的に改正せられ、教育義成が徹底すれば、国鉄従業員を公務員としておくことは少しも差支えない。いやかえつて私企業におけるよりも服務も厳正となり。賃に国民の公僕にふさわしくなることも考えられる。
ただ、残る問題は、「公職が威厳と権威と永績性とをそなえておる」
(マ書簡)とする見方との関連である。元来、行政や司法の任務にあたるいわゆる公法的関係にある者と、政府の事業に従事するいわゆる私法的関係にある者とでは国民に対する立場は全く違うのであって、労働関係調整法でも争議行為について割然たる区別をなして(第三十八条)おつたのである。
それで公職が威厳と権威をもつベき場合は、公法的関係についてのみいえるのであつて、私企業の従業員と質的に異るところのない六十万の大衆をあげてこの仲間入りをすることは、公職の性格を不明瞭ならしめる結果になりはしないかという心配が残るのである。
四
公務員には争議権も。いわゆる団体交渉権もない。国鉄従業員が公務員となれば、国民はまげストやサボで足を奪われる心配はない。この点では無条件に国鉄従業員が公務員であることが望ましいといわれるであろう。しかし問題は必ずしもそう簡単ではない。率直にいつて国鉄従業員ほ元来いわゆる労働者であつたのである。実体はあくまでも労働者であるのだが、国鉄が国有国営という企業形式をとるためにその従業員が官吏の仲間入りをしてきたのである。
その者から争議権も。いわゆる団体交渉権もとり上げてしまったら、全体の労働政策との関連はどう理解したらいいのであろうか。
この辺の問題になつてくると大分議論がむつかしくなつてくる。
五
国鉄従業員が公務員とすることは経営面にどのような影響を与え、従って運賃とどのような関係を生ずるであろうか。従来国鉄従業員を官吏としてきたのは、給料は安いが、栄誉と、地位の安定を得させるという特質をもつて、経営に寄与してきたとみられている。しかし公務員が一般の給与水準より低くともよいという理窟はなりたたず、かえつてマ書簡などからうかがえることは、公務員はその待遇もよくなるがその代り服務も厳格であるという考え方が支配的のようである。そうプると国鉄従業員が今のままで公務員として待遇をひきあげられると国民の負担が増大すること、なる。けれども、公務員法では厳格な試験によつて職員の適正が期せられているから、経営合理化は今より推進せられるとも考えられるのであつて、そうなれば国鉄従業員を公務員とすることは即ち経費の膨張を来すことであると速断できないであろう。そうすると国鉄従業員は公務員である方が経費を膨張させないですむという推論もでてくるのである。
六
その問題をとらえてみてもはつきりした持論はでてこない。ここで方向をかえて鉄道企業の実体との関連を考えてみよう。まず第一にいえることは、鉄道企業が公共的でしかも独占的であることであるが、このことは、その従業員が全体の奉仕者であるとの観念をもつて業務を行うことを要求する。
そうして公務員は何ものよりもまず全体の奉仕者であることが本質であるから、国鉄従業員を公務員とすることには充分その理由がある。第二にいえることは、鉄道企業が資本的であつてその経営に膨大な資金、資材を投下せねばならず、又、列車の運轉は多数の人命にかかわる重大事であるということである。このことは、国家が経営の内部に立ち入つて徹底的に監督をする必要を感じさせるものであり、しかもそれが大規模且複雑のものとなればなる程監督者自らこれを経営することがよいという結論になつてくるのである。第三にいえることは、鉄道企業は、統一的になされ、特に命令服従の関係が明確となつていることを要求するということである。このことは、従業員に罷業権や対等の立場でする団体交渉権を認めることを決定するものであつてこのことからそれが公務員でなければならぬという結論にならざるを得ないのである。
以上のような理由から、鉄道従業員が公務員であつてほしいと要求をするのは何よりも鉄道企業自体であり、この企業自体の性質こそ、いかなる企業形式をとろうといかなる労働政策をとろうと、これらとかかわりなく、厳として存在するといわねばならないのである。
(職員局総務課事務官)
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