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停車場会社の誕生とその将来 (昭和23年に構想されたが実現しなかった民衆駅構想)

以下は、昭和23年9月号の「交通」当時の運輸省鉄道総局向けに発行されていた部内誌の記事からの抜粋ですが、ここで当時池袋駅の再開発に資するため、「停車場開発株式会社」が設立された事の記事が出ています。

この記事では、運輸省(鉄道総局)から、駅舎部分の土地を出資(借りて)してもらい、そこに駅舎と商業施設の複合施設を建設していくというもので、以下のように書かれています。

運輸省からその駅舍建設敷地の提供を受けてこれを借用し、駅及びその附帯施設を建設して駅部分はこれを運輸省に賃貸し、附帯施設を自ら経営して収支のバランスを採ろう 
 このように、会社の構想ではより理想的な形のこうない営業者を作ることを想定していたようであるが、この方式はその後の国鉄発足の中で消えてしまうことになります。即ち、国鉄という組織自体が鉄輸送事業以外を大きく制限されることとなり必然的にこうした大規模な口内営業者などを作ることが実質的に潰されることとなりました、この辺は、以下の私の動画でも解説しています。
併せてご覧ください。

 

鉄道講座 公共交通の視点から見たJRの問題

 
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停車場会社の誕生とその将来

伊藤滋


 国有鉄道がその停車場設置を民間の手にゆだねるということは、容易ならぬことであるのにかかわらず、約半年の短時日の内に日本停車場株式会社が成立してしまつたのには、最近の鉄道財政の逼迫ということが直接の原因になつたようである。しかし運輸省の中に民間資本の協力を得た民衆停車場建設の思想はもつと前からあつたもので、それは必ずしも資金の理由からのみではなく、鉄道民主化という理想の上にも立つていたのである。
 全国百二十余にのぼる戦災駅舍の復興計画に当つては過去の停車場を反省し、これから生れかわる日本の国の将来を考え、折角戦災駅舍を新たに建設するなら、禍を転じて福として新時代の感覚をもつたものにすべきは当然である。
 停車場は何といつてもその土地の、その都市の顔であり文繁栄の門であつたし、ましてや此の大職災をうけた各都市にとつては停車場は復興の焦点であり核であるのだ。
旧来の国有鉄道の停車場駅舍は旅客と荷物の取扱場としての、純事務的施設として今日迄取扱はれて来た、云はば乾燥無味なそして、恐らく民衆から見れば官僚的な設備だつたといわれよう。
 戦災地の本復興は区画整理に始まる。この区画整理によつて各都市共第一にそこの駅前広場の拡張が行はれ、これによつて自動車時代後永い間の各解のなやみが改善されると同時に、此の新駅前広場を取り巻いて、清新活発な都心的繁栄が約東され又着々実現しようとしている。この貴重な駅前広場の正面を占有する停車場駅舍が、もし蕾の如く冷いひからびた事務的建物であつたらどうであろうか。それはその都市繁栄の焦点であり復異の核たろうとする駅前広場の希望を台なしにするのは勿論、経済的見地から云えば余りにも算盤を考えない役所仕事と云われても仕方がないであろう。
  もしこれが民間鉄道会社の駅であつたら、誰がこの貴重な土地を単なる事務的駅舍としてそのままにほつて置くであろうか。これは何も単なる商人的金利主義からの考え方では無いし、停車場をいたづらに商品扱いしけばけばしたわい雑なものにしようとするのでもない、問題はこうした事柄に対する民衆の常識感覚と旧来の官庁仕事との間のかけはなれにあり、それが停車場駅舍を何となく民衆に近づきにくい親しみのないものにしている所にある。しかも此のかけはなれた唯に施設のみにとどまらず、それが鉄道職員の旅客サービスの不手際としても現はれて来るのである。鉄道と旅客、鉄道と民衆、鉄道と都市、鉄道職員と大衆とが互に血のつながつたものになるのが新日本の鉄道の行き方であり、鉄道の民主化と云う事である限り、停車場駅舍の新しい意味は駅前場を取り囲んだ一帯の建築物と共に、一環をなすような生気を探り入れる事でなければならない。
 戦災復興計画に於ける興舍復興はこうした考へ方から、総合にはその土地土地の事情によって、或は階上をホテルとしたり、旅客の要求しそうな商店や有料化粧室や或は医院とか理髪とか等々の施設を加えて、旅客の便益を計ると共に、時には市民も駅に行つて見ようかと云う気にもなれる様な、そしてそれが駅広場前面の商店とも相呼応して、広場を中心とした二つの繁栄を盛り上げようと構想し計画されて来たのである。しかもこうした附帯設備を大規模に実施するのは鉄道自身の財政のみに頼る必要はなく、これ等附帯設備の経営を条件として、民間資本の協力を求めるべきであると考えられて来たのである。それ故、停車場会社の出現は鉄道経済の立直り過程に於ける、一時しのぎの事柄だと考えるべきではなく、将来鉄道事業が立派な採算が採れるようになつても、益々民間資本の協力を盛んにして完璧の民衆施設を盛つた停車場駅舍の建設を予想し期待しなければならない。
 ともあれこうした経過によつて日本停車場株式会社が成立し、運輸省の意志に従つて先づ池袋駅西に本屋の建設に着手する段取りに立ちいたつたのである。この会社の経営は先づ運輸省からその駅舍建設敷地の提供を受けてこれを借用し、駅及びその附帯施設を建設して駅部分はこれを運輸省に賃貸し、附帯施設を自ら経営して収支のバランスを採ろうとするのである。それ故この会社は単なる建物保有会社ではなく、広い意味での構内営業者であるから、この付帯施設の経営のしかたが会社にとつては収支の死命を制するものであり、運輸省にとつては信顧し得る構内営業者と見なし得るかどうかの分れ目となる。戦災後各地の駅前に所謂マーケット建築という大バラックが亂立し、一坪数万円の権利金でこれを社切り売りして、立ちどころにその建築費を取戻している。これが闇マーケットの本家の如き実情を呈して、駅付近の空気をにごらしている。そうした現実が生々しい為めに停車場会社による駅附帯部分が又このようなわい雑さを駅に加えやしないか、そして又停車場会社とはこうしたマーケット屋ではないかというような連想さへ一部にはあり得そうである。だが事は全く反対であつて、一刻も早く各地に停車場会社の駅事業を起し、堅実清潔な経営を開始することによって、戦災の産物たる闇マーケットを駆逐して駅附近を浄化しようとしているのである。敗戦後の売店というと野菜や古着や古靴を並べる事の様になつているが、こうした商売が、堂々たるデパートや駅前で行われるということはなさけない変態であり、やがて近い内に消滅しなければならない筈のものである。むしろ駅構内に於ては郵便局とか銀行とか医院や理髪店や清潔な食堂や又商店で云えば中級以上の商品が販売されなければならない。第一次に出来る池袋駅に於ても、右の様なもくろみの元に計画しているし、銀行や医院や?便局は別として、その他の商業はそれぞれの専門家を起用して極力停車場会社自身が 経営して、鉄道用地を使用させて貰えることに対する構内営業者としての責任を果す覚悟でいるのである。
 日本停車場株式会社は池袋駅復興費である三千五百万円を当初の資本金としている。従つて第二、第三と次々の駅にかかる度に増資をして行くものであつて、どうか早急に沢山の停車場復興に役立ちたいと希望している。しかし全国の戦災駅は百二十余に及んでいるし、一停車場会社が全国に手をのばして短時日の内にこれ等戦災駅を復興することは到底不可能である。それ故もし今回の会社設立が刺激となつて、或は大阪に、同様な停車場会社が設立されることは国有鉄道のために期待するところである。日本停車場会社は決して独占会社でもなければ又独占し得る筈のものでもない。
唯ここに注意して置かねばならない事は、前にも述べたようにこうした駅舍の経営は構内営業者として、恥かしからぬ道義の上に立つ限り、池袋級の駅一ヶ所では収支の健全なバランスは採り難く、大体三ヶ所乃至四ヶ所の駅を経営して、始めてある程度の配当も期待出来るということである。それともう一つは株式会社としての資本の吸収がその駅付近の人達からも投資されることは必要であるけれども、そうかといつて余り局地的な資本のみによることは駅の設計や、或はその経営が極端に地元的色彩に陷るおそれがあり、都市全体のための駅の風格を歪曲することにもなる。従って一つの都市にいくつかの停車場会社が設立されることは実際問題として困難でもあり。又望ましくもないのであるから、一都市内にそうした助きがある場合にはこれを運輸省が誘導して適当に一会社の増資拡張の形に持つて行くことが必要であろうと考える。
 さてこうした民衆停車場が今後日本続々と現われて来るについては。その設計を如何に扱つて行ぐかは無経験な仕事であるだけに、技術的にも大きな将来の課題が待つている。当分の間はせいぜい二階建位の小規模なものに制限されるけれども、この事業のほんとの面白さはやがて来たるべき時代の鉄骨コンクリートの高層建築にある。バファローやセントルイスの経験が何を教えるかを知り度いが技術上の最大の要点は駅の設計は旅客が少しの遅滞なく流れて行く事を望むのに、附帯設備は旅客が出来るだけ停滯して呉れることを要求するのであって、此の対立をいかにうまくさばいて行くかにあるし、駅前変場る純旅寄と附帯設備の客とが互にインターフェァーしないように調整されることである。恐らく鉄道線路が地下えもぐつてしまつた場合に、最も理想的な設計が可能になるのでは無いかと考えられる。こんな将来のととは先づ措くとしても民衆停車場の設計こそ余程真重に考えないと設計抜術が認をも、又経営部分をも台なしにしてしまうおそれがあるので、設計の責任は非常に重いことになる。今後大いに研究し勉強すべき好課題である。

(前運輸省施設局建築課長、日本停車場株式会社副社長)



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